Japan Metal Indies

History Of Japan Metal Indies / メタル・インディーズ・ムーブメント

まず、ここのページでは'80年代初頭のメタル・インディーズ・ムーブメントを振り返ると共に、自主制作盤の流れについても考えてみる事にします。
しかし、めちゃめちゃ長くなるので時間がある時にゆっくり読んでね。

”インディーズ”という言葉が頻繁に日本の音楽誌を騒がすようになったのは、'70年代中期を迎えた頃。
その発端は実はパンク/ニュー・ウェーブのバンド達が自主制作活動で、既成のレコード会社では取り扱えないような過激なサウンドを、”インディーズ・レーベル”から自主制作で発表するという流れから始まった。
その流れは、輸入文化に敏感な日本のロック・シーンまでもが受け入れて、パンク/ニュー・ウェーブの波がアッという間に日本国内に蔓延した。
それに連動して大都市を中心に”インディーズ・レーベル”が誕生したのが、'77~'78年頃の事である。
しかし、'80年代に入ると”インディーズ・シーン”が生んだパンク/ニュー・ウェーブという長い間はびこっていた定説が揺らぎ始める事になる。

当時はまったくもってシーンとしての携帯、規制、統制も無かったハード・ロックが、この”インディーズ・シーン”に喰い始める事になる。
日本のハード・ロック・シーンにおいて、一番最初に自主制作に踏み切ったのは、古豪として知られ語り継がれる事になる”アイボリー・ゲイト”である。
彼らは、'81年10月にシングル「Like A Midnight Sun」 b/w 「Time In Your Life」をリリースしたが、これこそ日本のハード・ロックにおける記念すべきファースト・インディーズ・リリースと言える。

当時まだ日本のハード・ロックに対する偏見や認識が著しく低かった為に、このシングルはファンにこそ親しまれたものの、インディーズの動きを活性化させるまでには至らなかった。 しかし、斜陽の真っ只中にあった日本のハード・ロックにおいて、エポック・メイキング的な出来事となったのは事実で、この後に訪れる”インディーズ・シーン”を中心としたジャパニーズ・ニュー・ハード・シーンの大事な出発点になったと言う事は紛れもない事実である。


その後、”メサイア”が'82年暮頃に突然日本のハード・ロックにおいて初のフル・アルバム『Mental Ground Zero』を発表し、状況的には1歩も2歩も進んだところを見せた。
だがそれよりも、音楽関係者、またファンに、ハード・ロックにも”インディーズ”の動きが胎動期を迎えている事を強烈にアピールしたという意味では、”サブラベルズ”の功績が大きい。
そして、忘れてならないのが、44マグナムがギグで配ったシート・レコードである。
サブラベルズは、アルバム『Sabbrabells』を'83年夏にリリースした。アルバムを発表したということでも興味深かったが、彼らはこのアルバムを持ってツアーに出た。
つまり、”インディーズ・レーベル”最大の弱点である、配給ルートの難しさは彼らに行商を余儀なくしたわけだ。
しかし、これが逆にファンをライヴ会場へ自然に足を向けさせるという現象を生み、バンドにとってはまさしく”吉”と出たのである。
そいう意味では、44マグナムの取ったライヴ会場における、フォノ・シート無料配布ギグもファンの脳裏にライヴ・ハウスという小さなスペースを位置付ける事に成功した。

その後に拡がった無料配布ギグも、サブラベルズの取った行商も全てここから始まったものである。
よくライヴ・ハウスに行ってスケジュールに目を通すと、”無料配布ギグ”の告知が見られたし、行商も自主制作盤をリリースしたバンドとしては当たり前のことになったが、当時としては実に画期的な出来事であり、と同時に”インディーズ”の活動拠点はライヴ・ハウスにある、という図式を作り上げたのであった。
この二つの出来事は、決して商業的な成功を収めたわけではないが、ジャパニーズ・ハード・シーン勃発において、とても重い意味を持っており、今振り返ってみても、もしこれらの動きが無かったらその後に起きるメタル・インディーズの流れは生まれなかったろう。


サブラベルズ、44マグナムの斬新な手法は、制作側に既成のレコード会社に頼らなくても自分達で商品を作れるという観念を植え付け、日を追うごとにその考えがミュージシャンの間に深く根を降ろすのに成功した。
そして、各地から”インディーズ・メタル”の熱き咆哮が聞こえ始めたのである。

 名古屋から突如飛び出した”スナイパー”がその好例と言えるであろう。
彼らはまずシングル、「Thrilling Shot」に続き、ライヴ・アルバム『OPEN THE ATTACK』をリリースし、短期間でクラブ・シーンにおいて重要な地位を手中に収めた。
そして、サブラベルズのアルバム好セールスで成功を収めた東京のエクスプロージョン・レーベルは、当時東京を代表するバンドとして知られていた、アンセム、十二単、ヴェィルら、計7バンドを収録したコンピレイション・アルバム『Heavy Metal Force』を発表し、東京勢のパワーを全国に訴えかけた。
この、1984年の前半がいわゆる”メタル・インディーズ” の始動期であり、またファンの間で動きが取り沙汰され始めたのもこの頃であった。

 ここでひとつ注目したいのが、”インディーズ・シーン”の名のもとに集まったバンドの出身地域である。
当時ジャパニーズ・ニュー・ハード・シーン”が、”西高東低”、つまりアースシェイカー、44マグナム、マリノ、ハリー・スキュアリー、ラジャス、セクシャルといった関西勢のレコード・デビューによって支えられていたのに対し、”メタル・インディーズ”は、関東、そして中京勢が主だった事は、実に興味深い事であった。
関西勢の奮起により日本のハード・ロックは、一時関東、中京勢が押され気味だった。
メジャー・レーベルは、”西高東低”現象の為か、積極的に関西勢にアプローチし、関東、中京勢をその視界から外したようだった。
この怒りを”インディーズ・シーン”にぶつけたのが、関東、中京勢だったのである。

そしてこれは、”インディーズ・シーン”隆盛の大きなバネとなり、以後”インディーズ・メタル・シーン”は、
関東、中京勢が主導権を握り、より大きな動きへと発展していくのである。


1985年を迎えると”インディーズ・メタル・シーン”は一気にその勢力を拡大させた。
スナイパーを発掘した名古屋のE.L.L.レコードは、ティルト、クロウリー、ルーシェルといった新鋭を送り出した。
一方東京のExplosionは、コンピレイション・アルバム『Heavy Metal Force』をシリーズ化し、ハード・コア、スラッシュ・メタルといった当時あまり注目されていなかったジャンルにも目を向け、アーティストの制作活動をヘルプしていた。
そして、新たにMandrake Rootレーベルが誕生した他、独自の力で自主制作活動を行うバンドも目立ち始めた。

 ここで特筆したいのが、この頃デモ・テープの販売が急増した事であろう。
レコード類、フォノ・シートがその”メタル・インディーズ・シーン”の主たる商品だったが、それらのマテリアルよりも手軽に、また制作費も安く出来るデモ・テープが加わったのだ。
それはアンダーグラウンドのマーケットを確立するという次元を超え、混乱とも言える入り乱れた状況を引き起こした。
この飽和、混乱状態を一時期に安定させ、また統制したのが、リアクションとサブラベルズである。

前者はアルバム『INSANE』がインディーズ・リリースにもかかわらず1万数千枚という、とてつもないセールス記録を打ち立て、何者にも屈指えない勢いを持ってその頂点に立った。
後者はファースト・アルバムの『Sabbrabells』に続き、ミニ・アルバム『Dog Fight』で更に地位を確立、リアクションと同じ次元に並び、”インディーズ・シーン”において確固たる存在感を見せつけた。
この2つのバンドが残した業績は、まさしく日本の長いハード・ロック史上において燦然と輝く偉業といえるものだった。